HANS ―闇のリフレイン―
夜想曲1 Herz
2 僕はハンスです
翌日、ハンスはスピーカーから流れて来る音楽で目を覚ました。それは彼女がセットしていたラジオ講座の声だった。
アルファベートや数字や簡単な会話が日本語とドイツ語で流れて来る。
「ここは……」
隣を見ると彼女はまだ気持ちよさそうに眠っている。
「……夢じゃなかったんだ」
彼は思わずそう言って周囲を見た。
「僕は今、日本にいる」
淡いグリーンの葉が絡まっている壁紙が部屋を覆っていた。ベッドの向かいには大きなドレッサーとクローゼットが設えられており、サイドテーブルには花の形の間接照明。脇には読みかけの本と小さな時計が置かれている。
「僕はハンス・ディック・バウアーです」
彼はスピーカーの声をなぞるように呟いた。
「僕はハンス……です」
彼は繰り返す。
「僕はドイツから来ました」
天井を見つめたまま、無個性な声で呟く。それから半身を起こして彼女を見た。
「本物の女の子だ」
ハンスはその寝顔を見て微笑する。
「美樹……」
絡ませたままの指先は少しだけ冷えていた。
「愛しい僕の天使……」
彼はその胸に顔を押しつけた。
「うーん。何……?」
彼女は眠そうに目を瞬いた。ラジオの声はまだ続いている。
「あれ? もう講座始まっちゃってる……?」
美樹は慌てて身を起こそうとしてはっとした。
「……ちょっと! いやだ! ハンス、何やってるの?」
驚いて叫ぶ。
「君の心臓、ちゃんと動いてるの確かめてたです」
胸に耳を押しあてていた彼が笑う。
「心臓って……」
――鞄の中に何が入っているかわかりますか?
昨夜のハンスの声が頭の中を巡った。
――それは僕の心臓
「いつから起きてたの?」
美樹が訊いた。
「音楽が聞こえたから……」
彼が半身を起こしたので美樹もそうした。
「ああ、ごめんね。起こしちゃって……。昨夜はよく眠れた?」
「はい。ぐっすりと……」
「それはよかったけど……。やっぱりシングルじゃ無理があるかな」
「じゃあ、ダブルベッドを買いに行きましょう」
ハンスが言った。
「やっぱりそうなるのね」
ため息交じりに美樹が言う。
「だって僕達、結婚するんだもの」
「……そうね」
美樹が消極的に頷く。その時ラジオから音楽が流れ出し、エンディングが始まった。
美樹は枕元にあるリモコンを操作してラジオを停めた。
「おはよう」
そう言うとハンスは彼女の頬に二度キスをした。
「おはよう。今日もいいお天気みたいね」
美樹はベッドを出て窓のカーテンを開けた。部屋全体に明るい陽射しが射し込んで来る。
「僕はハンス・ディック・バウアーです」
その光に向かって彼が言った。
「いい名前よね」
「眉村美樹(マユムラ ミキ)というのもいい名前です」
彼はそう言うとまた彼女に触れようとした。
「いつもあのドイツ語講座を聴いてるですか?」
彼女の長い髪にそっと指を通すとまるで鍵盤を鳴らしているような愉悦を感じた。が、彼女はそっとその指を髪から解いて頷く。
「それは僕のためにですか?」
「それもあるかな」
美樹は素直に答えた。
「うれしいな。でも、これからは僕が教えてあげるですよ」
「教えてくれるの?」
「ええ。もちろんです。ドイツ語と僕専用の愛の奏で方を…ね」
それから、二人は着替えや洗面を済ませると階下に降りて行き、美樹は朝食の支度を始めた。
「僕、庭の花に水をやってもいいですか?」
ハンスが訊いた。美樹は電気ケトルにミネラルウォーターを注ぎながら応える。
「助かるわ。頼める?」
「はい。喜んで」
彼はうれしそうだった。
「庭の隅に水道があるから、そこの青いホースを使ってね」
「わかりました」
それから、彼女は卵焼きとサラダを作り、ハンスは庭に下りて水を撒いた。青空と水の飛沫が朝の光に煌めいて、花壇の花達も輝いて見えた。両隣にも家はあったが、どちらも少し離れている。左側の家は白い壁のモダンな造りの二階建てで、右側の家は古い日本家屋。そちらとの境には大きな木が何本も生えている。庭が広く、屋敷までの距離もある。その裏には林が広がっていて、鳥達が群れていた。
「こうして見ると、美樹ちゃんの家は素敵だな。まるで美樹ちゃんそのものみたい……」
ハンスは振り返ってその外観を見つめる。明るい煉瓦色をした家はいかにもあたたかそうな雰囲気を纏っている。
「ハロー! 僕はハンス・ディック・バウアーです」
彼は庭にも挨拶した。色とりどりの花達がみんな、彼を見て笑ったような気がした。
「何て幸せな朝なんだろう」
彼は子どものようにはしゃぎながらそこら中に水を掛けて回った。
「ハンス、トーストお代わりする?」
明るい陽光が射し込むテーブルで美樹が訊いた。
「いいえ。僕はもう十分です」
スープの皿をかき混ぜていた彼が言った。
「あまり食べないのね。口に合わなかった?」
「いつもこんな感じです。パンとチーズ、それにココアかミルクがあれば、僕は満足だし、ルドもそんな物しか作りません」
「朝食はお兄さんが作ってくれるの?」
「はい。これまでは……」
そう言いながら、彼は何度かスプーンを口に運んだ。
ハンスにはルドルフという兄がいた。しかし、実際にはこの二人の間に直接の血の繋がりはなく、彼らの容姿はまるで似ていなかった。それでも彼らは同じ仕事をし、互いに協力し合っていた。
「誰かいる」
ふいにハンスはスプーンを置くと聞き耳を立てた。
「誰かって?」
小声で美樹が訊いた。
「……今、玄関の方で音がしました。泥棒かもしれません」
「泥棒? こんな朝っぱらから?」
美樹は納得できないといった顔でハンスを見た。その時、微かにカチッという金属音が聞こえた。
「ロックを外すつもりだ」
声を押し殺したようにハンスが囁く。
「でも……」
「何も心配はいりません。僕が犯人を捕まえます」
そう言うと彼は静かに席を立った。
玄関ではまさに扉が開こうとしていた。ハンスは素早く戸口の影に隠れると、入って来た男の襟首を掴もうとした。が、相手はすり足で受け流し、足払いを掛けて来た。
(避けられた……?)
ハンスは辛うじて踏みとどまると、もう一度男の懐に飛び込もうとした。が、男はその動きを見切ったように小手を叩いて払い退け、腕を掴むと胸に拳を当てた。
「くっ……!」
彼は身体を捻って交わしたが、反動で思わず膝を突いた。
「ほう。なかなか機敏に動くじゃないか」
相手は余裕で彼を見下ろした。それは白髪の混じった年配の男だった。
「ふ。驚いた。……あなた強いね」
ハンスは床に膝と片手を突いたまま、唇の端に微笑を浮かべた。二人は沈黙し、互いの力量を測り合った。蓄積して来たものの深さと長さが拮抗し、どちらかが譲ることは決してなかった。
「やだ! お父さん! 何やってるの? ハンスも……」
慌ててやって来た美樹が言う。
「お父さんって、君の……ですか?」
ハンスは呆然としてその顔を見つめた。男は年老いていたが、言われてみれば、目元や口元が彼女に似ている。
「そうよ」
美樹が頷く。
「それにしたって、どうしたっていうの? こんなに早く……。いつも突然に来るんだから……」
美樹は困惑したように彼と父親とを見比べた。
「まさしく虫の知らせという奴だ。急に思い立って来てみればこの様だ」
一人ごとのように父は言った。
「いきなり、こんなことをして……」
座り込んだまま動こうとしないハンスを見下ろして言う。
「いったい、どういうつもりなんだ?」
問われた彼が俯く。その時、背後から成り行きを見守っていた母がやって来てハンスに声を掛けた。
「さあさ、もういいから、お立ちなさいな。そんなところにしゃがんでいると冷えてしまうから……」
しかし、父はそんな連れ合いを下がらせて言った。
「どうした? 何か言ってみろ! 答えられないのか?」
父に睨まれ、ハンスはさっと立ち上がると言った。
「僕は美樹と結婚するために来ました」
その言葉に両親は驚いて互いの顔を見合った。
「そうなのか?」
厳しい表情のまま娘に訊く。
「昨日、飴井さん達と一緒に空港へ迎えに行ったの」
美樹が応える。
「それって本当なの?」
母も驚いてその顔を見つめる。美樹は頷いて見せたが、父の表情は益々険しくなった。
「認めんぞ!」
父が言った。
「こいつは堅気じゃないだろう。俺にはすぐにわかった。この男は一年前の殺……」
「ハンスよ!」
美樹が叫んだ。
「病気はすっかり良くなったの。それで、ハンスは日本に来たの。彼はもう昔の彼じゃない」
娘は必死に訴えた。
「その通りです。僕は美樹のために生きる。彼女のためなら何だってする。子どもの頃は僕もファーターが怖かった。でも、今は違う。僕はもう大人になって、手も大きくなって、彼女を守れるようになったんだ! だから、美樹ちゃんを僕に下さい!」
「駄目だと言ったら?」
父は冷たく言った。
「……だったら、連れて行く! あなた方の手の届かないところへ……」
そう言うと、ハンスは美樹の肩を抱えるように両腕で包むと後ろへ下がった。
「たとえどんな場所に逃げ込んだとしても必ず見つけ出すぞ」
父が言った。
「無理ですよ」
その瞳は灰色がかって見えた。その視線が父のそれとぶつかる。
「何故そう言い切れる?」
父は目の前にいる男の素性を吟味するように見つめた。ハンスは視線を逸らさず、口元に笑みを浮かべて平然と言った。
「邪魔したら、僕があなた方を殺すからです」
「ハンス……!」
美樹はその腕を引っ張って制止し、母は動揺したように夫を見た。緊迫した玄関に百合の花の匂いが立ち込めている。そのまま世界が停止してしまうのではないかと思われたその時、遠くから調子の外れたオルゴールの音が聞こえて来た。それは街を巡回する清掃車が発するメロディーだった。
「お願いです。美樹ちゃんを僕に下さい」
ハンスが言った。
「ずっと彼女のことを考えていました。彼女なしではもう、僕は一日だって生きていけない。彼女のためなら何だってする。この手を血に染めたって構わない。彼女がそれを望むのならば……」
「駄目よ! わたしはそんなこと望んでいないの」
美樹は必死に訴えた。
「わたしはただ、あなたが平穏に暮らして行けることを願っているだけ……」
「平穏……?」
ハンスは微妙な表情を浮かべた。
「そうよ。普通のピアニストとして……この日本で……」
「普通の……」
彼はだらりと下げた自分の腕の先を見た。軽く握り掛けた右手と開いたままの左手を……。
「とにかく家の中に入って話し合いましょう」
母が言った。
「話し合いも何も……」
父は応じるつもりがないようだったが、母に説得され、渋々リビングへ向かった。
「わたし達も行きましょう」
美樹がハンスの腕を引く。
「……行かないと駄目ですか?」
彼は気が進まないようだった。瞬きもせず、じっと壁を見つめたまま考えている。
「ハンス……」
見かねた彼女が声を掛ける。が、彼はいきなりわなわなと震えだした。
「……おしまいだ」
ハンスは片手で顔を覆うと壁に凭れた。
「お父さんは僕のことを知っていた。僕が普通でないことも……みんな……。ああ、どうしよう。君と結婚できなかったら、僕死んじゃう!」
そう言うと彼はその場に座り込んだ。
「大丈夫よ。お父さん、あんなこと言ってたけど、話せばきっとわかってくれる。だから、リビングへ行きましょう」
しかし、ハンスは動こうとしなかった。
「わかってたんだ。こうなるって……。いつもうまく行かないんだ。僕の望むものはいつだって遠い……。どうして? 僕は好きになってはいけないの? 苦しいんだ! 君のことを思うと心臓が破裂しそうなんだ……!」
彼は悲痛な声を上げて泣き始めた。
「ハンス……」
狼狽する彼女を棚の人形達が見つめ、外ではひそひそ話をするように雀達が囀っている。
そこに立っていると、時間が遡って行くような錯覚を覚えた。
――僕にもっと時間があったなら……
一年前、彼は病気だった。余命幾許もないと知ると、一夜だけの契りを交わし、彼はコンサート会場へ向かった。そして、それが永遠の別れになると思っていた。
「あの日からずっと心の奥で鳴り続けている。君のために弾いたあの曲が……。終わらないんだ。いつまでも……。ここに来たのに……」
消えない記憶の棘が、心に深く食い込んでいる。そこから流れ出る赤い血が二人の鼓動を繋ぎ止める。
「わたしの中にも聞こえてるよ」
感慨深げに美樹も言った。
「決して終わることのないその音が……」
静かな時が流れていた。
「失くしたものが多過ぎて……僕にはもう考えられないんだ」
ハンスはゆっくりと顔を上げた。
「君の両親は許してくれるだろうか?」
美樹が頷く。
「きっとね。だから、行こう」
二人がリビングへ入って行くと、父はテーブルに着いていた。台所から来た母がそれぞれの茶碗にお茶を注ぐ。しばらくの間、誰も何も言わなかった。母が土産に持って来た和菓子をそれぞれの前に置き、父は黙って茶をすすった。
「それで、いつ日本へ来たって?」
父が訊いた。
「昨日です」
ハンスが答える。
「向こうでは何をしていた?」
「何も……」
ハンスはその左手を庇うようにぼそりと言った。
「向こうで手術を受けたのよね?」
美樹が代弁する。
「それで結果はどうだったんだ?」
父親が訊いた。その間もハンスから目を逸らさない。
「成功しました。でも、長いリハビリテーションが必要でした。本当はもっと早く来る、と思いました。でも、僕は耐えました」
「そのまま諦めてくれたらよかったのにな」
父はそう言うと煙草を一本取り出して吸った。
「……僕は諦めませんでした」
ハンスは言った。
「それで、おまえはどうなんだ?」
父が娘の方を見て訊いた。
「わたしは……。彼が戻って来てくれたらいいと思ってた」
父は長くなった灰をとんとんと灰皿に落として言った。
「自分から苦労をしょうつもりか?」
「苦労だなんて……。わたしはただ……」
「前の男の時もそうだったが……。おまえはよくよく情に流されやすいようだな」
「あなた、そんな言い方しなくても……」
母が慌てて制する。が、父は表情を変えず、黙って煙草の火を消すと娘の顔を見て言った。
「よく考えてみるんだな」
抑制した声だった。
「……もう考えてみたわ」
娘の方も落ち着いて言った。
「でも、本当のところはよくわからない。確かにわたしは情に流されやすいのかもしれない。でも、彼のことを特別だと思っているのも確かなの。だけど、失敗もしたくない。だから、ハンスにもちゃんと伝えた。考えさせてと……。わたし達、お互いのことをもっとよく知る必要があると思ったから……。もっとじっくり付き合ってみて、本当にパートナーとして掛け替えのない存在なら、彼の過去には拘らない。それではいけないの?」
「美樹ちゃん……」
ハンスは暗い表情で彼女を見つめた。
「そんなことを言って、もう十中八九決めているんだろう」
父は2本目の煙草を取り出すとライターで火を点け、ふうっと息を吐き出した。
「まったくおまえという奴は一度言い出したら聞かないんだからな」
「じゃあ、わたし達が付き合うこと、許してくれるのね?」
父は難しい顔をしたまま娘を見ていた。
「今はまだどっちに転ぶかわからないしな。時間が経てば、そいつの化けの皮も剥がれるかもしれん」
ハンスが首を傾げる。
「許してくれるって……」
美樹に言われて彼はようやく微笑した。
「ありがとうございます」
ハンスが言った。
「結婚を認めた訳じゃないぞ!」
父が強い口調で釘を差す。
「わかっています。でも、お父さんに許してもらえなければ、お付き合いもできません。これで、僕にもチャンスが巡って来たっていうことです」
ハンスはまた自信を取り戻したようだった。
その時、玄関チャイムが鳴った。
やって来たのは飴井進(あめい しん)と川本一平(かわもと いっぺい)の二人だった。
元刑事の飴井は日本人にしては大柄で厳つい感じの顔つきをした男で、川本は痩せ形で冒険家を自負していた。彼らは美樹の同級生で彼女の両親とも顔見知りだった。
「すみません。こんなに早く……」
飴井が詫びる。
「こいつを責めないでやってください。彼女のことが心配でいても立ってもいられないって言うもんで、俺が強引に誘っちゃったんです」
川本が経緯を説明すると、飴井は少し気まずそうな顔をした。
「心配? 君達から見ても、この男は心配の種になるような奴なのか?」
父が訊いた。
「いえ、別にそういう訳ではないのですが……」
飴井は口ごもった。
「おい、何迷ってんだよ。両親がいるんなら丁度いいじゃないか。はっきり言っちゃえよ」
川本が突く。
「無責任なこと言うなよ。そんな単純な問題じゃない」
飴井が睨む。川本はやれやれと言うように首を竦めると窓の向こうを見やった。
|